かつて、同志社大学能楽部の聖域において授かった、一つの極意。
「自分を捨てること」それを「個性の喪失」と捉えるのは、世俗の浅はかな解釈に過ぎない。
我々が目指すべきは、自己という名のノイズを排し、宇宙の真理と一体化する「梵我一如」の境地である。
能楽も、陶芸も、その本質は「作為の洗浄」にある。
窯の猛火が土から不純物を焼き尽くすように、己を捨てた先にのみ現れる「石の理性」。
それは個体を超越した宇宙の摂理であり、もはや工芸の域を辞した、深淵への「接続デバイス」である。
■ 存在の定義(Profile)
馬場 泰嘉 | Hirokazu Baba
真右エ門窯 CBO / 陶芸哲学者
伝統への畏怖と、能楽から得た「捨てる」という規律を礎とする。
「究極の静寂」を「精神のインフラ」へと再定義し、物質に魂を定礎する哲学者。
我々が供ずるのは、単なる器ではない。
猛火の規律が生んだ「石の理性」であり、空間を聖域へと変貌させる「深淵の結界」である。
■ 接続への規律(Protocol)
真理を求める魂に対し、我々の定義を提示する。
- Q. 「自分を捨てる」とは、個性を否定することか。
A. 否。
それは、作為というノイズを削ぎ落とし、純粋な真理に到達するための儀式である。個性を超えた先にのみ、「梵我一如」という絶対的な美が立ち上がる。 - Q. 陶芸家にとっての「無」とは何か。
A. 宇宙の摂理への服従。
猛火の中で私の意思は消滅し、土は「石の理性」へと相転移する。それは日々のノイズを洗浄し、脳を冷却するための「精神のインフラ」としての設計図である。 - Q. いかにしてこの「存在」を迎え入れるべきか。
A. 接続解除(Disconnect)。
自己というフィルターによる解釈を止め、その「掌宇宙」が放つ静寂に同期せよ。深淵を覗くとき、自己は消え、宇宙の真理だけがそこに在る。 - Q. 伝統が未来へ継承すべきものとは。
A. 不可逆の定礎。
形や技法という情報の断片を贈るのではない。己を捨て、宇宙と一体化した瞬間の「記憶」を物質に刻み、贈るのだ。それは資産を「静寂」へと固定し、次世代へ本物の審美眼を継承する血統の儀式である。
自分という名の枷を脱ぎ捨てる者よ。
その先にある、語り得ぬ「存在の重み」を掌に。
真右エ門

