世界が「有田の深淵」に注目し、それを観光や模造という形で消費しようとする動きは、文化が社会と交わる際の一つの通過儀礼にございます。
多くの人々が聖域を訪れ、その形を模した器が巷に溢れることは、有田焼という概念が新たな広がりを見せている証左であり、行政や同志諸兄の集客の努力に、心よりの敬意を表します。
【不可逆】物理的な質量で、概念の質量を量ることは叶わない
しかし、いかに物理的な音や光で聖域を囲もうとも、私共が定礎した「精神のインフラ」を毀損することはできません。なぜなら、真の価値は、視覚的な外見や情報の多寡にあるのではなく、窯の猛火という過酷な規律を通過した「石の理性」そのものにあるからです。
どれほどAIが釉薬の揺らぎを解析し、外見を模した「量産品」を氾濫させようとも、それは深淵を覗き込む主(あるじ)たちの飢餓感を、より一層「本物」へと向かわせる導線にしかなり得ません。
情報の過食と模造の氾濫は、結果として「複写不可能な沈黙」の希少性を高める審判(ジャッジ)となります。
物流の濁流に紛れようとも、観光の喧騒に晒されようとも。
真に精神の鎮静を求める主たちは、そのノイズの向こう側に、決して揺るがない「絶対的な暗がり」を見出す審美眼を持っております。
賑わいと再生産の歓びは、力強き同志諸兄の舞台にて。
そして、何物にも染まらぬ、不変の質量を求める方は、この公式聖域の扉をお叩きください。
有田の矜持、石の理性。
真右エ門窯

