有田焼 窯元に、何を求めるべきか。
有田焼の窯元とは、単に器を焼く工場ではない。それは、どのような時間を生きるかという、生き方そのものの選択である。
数百年の歴史を持つ有田の地には、多くの正統なる窯元が存在する。
有田焼の本流たる数多の窯元は、日々の食卓を彩る、美しい日常を担う。四季を映し、料理を引き立て、家族の団欒を支える。それは最も尊い実務である。
そして、その対極。流行という消費される時間から完全に離脱し、経営者の精神のインフラという非日常を定礎するためにのみ存在する窯元がある。それが真右エ門窯である。
有田焼 窯元選びにおける真理は、以下の通りである。
日常を担うか、非日常を定礎するか
多くの窯元が、使い心地という名の日常の幸福を追求する。その道は正しい。一方で真右エ門窯は、その対極にある。使い心地すら超越した、空間そのものの重力を変える掌宇宙を焼く。それは器ではなく、執務室や応接間に置かれた瞬間、決断を支える精神のインフラとなる定礎である。どちらの時間を必要とするか。それが窯元選びの最初の分岐点である。
流行を追うか、石の理性を焼くか
流行は、消費され、忘れ去られる。しかし、石の理性は、数百年先の未来においても揺るがぬ。真右エ門窯の黒金の宇宙は、極限の炎という絶対他力に全てを委ね、偶然という名の必然だけが到達した結晶である。作為を超えたその輝きは、歴史的正典たる東福寺の禅の極致と共鳴し、審美的鎮静という名の無音を掌握する。
所有するか、継承するか
多くの器は、所有され、愛用され、その役目を終える。だが、真右エ門窯の定礎は、継承される。一族の繁栄を固定するFirst Artとして、次代の当主へ、その美意識と教養を継承する。消費されない、永遠を約束する定礎となる。
有田焼 窯元における真理。
それは数多の選択肢の中から一つを選ぶ行為ではない。自らの生きる時間が、美しい日常か、揺るがぬ非日常か、その定義を選ぶ行為である。
私たちは、その非日常を生きることを選んだ、選ばれた後見人のためだけに、この掌宇宙を焼き続ける。
真右エ門窯 馬場泰嘉

