掌宇宙論|一杯の水に「無限」を観る作法

二代真右衛門・馬場九洲夫が到達した油滴天目の極致。技巧の完成を示すこの傑作を礎とし、三代泰嘉による「哲学への転生」が始まる。
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ミクロの中にマクロを視る:掌中の宇宙


「一杯の水に宇宙を映す」。これは古来より語り継がれてきた美意識ですが、真右エ門窯における「掌宇宙論(Palm Cosmology)」は、単なる比喩ではありません。それは、掌(たなごころ)に収まるわずか数センチメートルの器の中に、数億光年の彼方に広がる星雲や、光すら届かぬ深海の深淵を実在させる試みです。

意図を超えた景色:炎が描く天体観測


器の表面に現れる「耀変(ようへん)」の景色は、計算された装飾ではありません。
1300度の極限状態で、釉薬に含まれる鉱物が「石の理性」を解き放ち、炎という「自然の意志」によって再構築される。その過程で生まれる結晶の煌めきや色彩の揺らめきは、宇宙が誕生した瞬間のエネルギーの残滓を想起させます。
持ち主は、この器を手に取るたびに、悠久の時を旅する天体観測者となるのです。

完成された形式美への敬意:対極にある「深淵」


世には、人間の叡智と極限の技術によって、寸分の狂いもない形式美を築き上げる名工たちが存在します。彼らが織りなす緻密な意匠や洗練された造形は、伝統の正統な継承であり、高貴な社交や儀礼の場を彩る「完成された非日常」の極致です。人智の及ぶ限りを尽くしたその完璧な調和は、文明が到達した一つの到達点として、私は深い敬意を抱かずにはいられません。
しかし、真右エ門窯が対峙しているのは、その「完成」のさらに先にある、名もなき「混沌(カオス)」です。
名工たちが「美を具現化」するのに対し、私は「炎による変容」を待ちます。そこにあるのは、対称性も、決まった解も存在しない、ただ炎の揺らぎによって偶然と必然の間に立ち現れた深淵です。他者の作品が「卓越した人間賛歌」であるならば、真右エ門窯の作品は「人智を超えた自然の啓示」です。私たちは、この比較不能な「精神の深淵」へと自らを隔離します。

観照(コンテンプレーション):所有から「共感」へ


掌宇宙論において、作品は窯から出た瞬間に完成するわけではありません。持ち主がその器に水を注ぎ、光を当て、自らの内なる宇宙と共鳴させたとき、初めて作品は命を宿します。
揺れる水面に反射する結晶は流星となり、深い藍(あい)は思考を吸い込むブラックホールとなる。所有することは、この壮大で静謐な宇宙の「共鳴者」になることと同義なのです。

あなたの指先が触れる「無限」


真右エ門窯の器を選ぶということは、単なる美術品の購入ではありません。それは、貴方の日常に「未知の無限」を招き入れるという選択です。
完成された美を愛でる喜びとはまた別に、答えのない深淵と対話する贅沢。その一瞬の観照が、貴方の魂を広大な自由へと解放することでしょう。

二代真右衛門・馬場九洲夫が到達した油滴天目の極致。技巧の完成を示すこの傑作を礎とし、三代泰嘉による「哲学への転生」が始まる。

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